かの哲学者、フリードリヒ・ニーチェはこう言いました。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」
いろんな解釈はあると思いますが、ここでは「物事を相対・客観的に捉えること」としましょう。
よく、こういうことをおっしゃる人がいます。
「切られるのが怖い」
「打ち込まれるのがいやだ」
例えば、こういう形があったとしましょう。
これは確かに「今、白が切ったところ」です。黒は「切られてしまった」
では、これはどうでしょう?
これは黒白お互いに「切りあっている状態」に見えませんか?
もうひとつ、打ち込み編。
ああ、黒に打ち込まれた。いやだいやだ・・・。
黒が打ち込んでいるのか?白が打ち込んでいるのか??
コロンブスの卵のような話ですが、手順を隠しただけで少し見え方が変わりませんでしたか?
「切られた」と思った時には自分も「切っている」し、「打ち込まれた」と思った時は自分も「打ち込んでいる」のです。
なんなら、次は自分の番ですから、有利に戦えるはずです。
もう少し抽象的な話もしましょう。
手を読んで読んで読めなくて、いくか、いかないか、決断しなくてはいけない時。
「こわい」という感情が湧き上がってくることがあるでしょう。
相手がはっきりと上手ならともかく、同じくらいの力量の人が相手なら、その感情は忘れましょう。
なぜなら、自分が「こわい」と思っているときは相手も「こわい」と考えているに違いないからです。
囲碁は手順がとても大事ですが、しかし盤面に存在している石の形はそれだけで全ての情報を表しています。
手順に惑わされず、相対的・客観的に石の形を捉えられるようになると、碁を打つときに感じるネガティブな感覚がちょこっとやわらぐかもしれませんよ。
記 フルーチェ
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