東京駅を出るとき、こだま号の自由席はすでに満席近かった。
金曜の18時すぎだ。週末に帰る単身赴任者や、ちょっと旅行に
でかける人がいるのかもしれない。
仕事を終えたつれと東京駅で待ち合わせして、箱根湯本の温泉に
行くことになった。思い立ったらと前夜に予約した宿は朝食のみ。
夕食はこれから駅弁だ。こんな小さな旅もたまにはいい。
小田原まで30分ちょっとしかないので、席にすわるとすぐに
包み紙をあける。つれは3列シートの窓側、僕は真ん中で右隣は
ビジネスマンがビールを飲み始めている。
僕はいつもの『ひっぱり蛸』だ。蛸壺を模した陶製の容器に明石の蛸が
ご飯の中にうずまっている。それをひっぱり出しながら食べる。
販促の願いもこもった粋なネーミングだ。
品川に着くと残りわずかだった空席も埋まり通路に立つ人も数人出た。
「混んでるわね。あら…。やっぱりシニアは指定席取らないと…」
弁当を食べながらつれが小さくつぶやいた。見ると品川から乗ってきた
老夫婦が僕らの席から少し離れた通路に立っている。
たしかにそうだ。在来線とちがいシルバーシートはない。新幹線で席を
ゆずる光景もあまり見ない。混雑覚悟でやむをえなかったのだろうか。
それともこだまだからと油断したのだろうか。
新横浜では誰も降りず、通路はますます人でいっぱいになった。車内販売も
検札も難しい混みぐあいだ。大きなトランクをもった若者2人組が
僕らの席のそばに立った。老夫婦は4、5列前の通路で立ったままだ。
「何とか座ってもらいたいね」
2人が小田原より先まで行くなら僕らの席に座ってもらいたい。
だが、列車が減速をはじめてアナウンスがはいると、立っている人はみな、
誰か降りる人はいないかとあたりを見渡しはじめた。
空気が少し緊張している。
「このままだとダメだな」
「そうね」
荷物をもってすこしでも腰を浮かしたら、すぐ横のトランクの若者が
着席体制に入るに違いない。
「ちょっとこのまま座って待ってて」
一計を案じた僕は、弁当の空箱を捨てにいくふりで立ち上がった。
通路の人をかきわけて2人のところに向かう。
「あの、どちらまで行かれますか?」
「えっ…三島ですけど」
奥様は見知らぬ人にいきなり行き先を聞かれて驚いただろう。
僕はすぐにその不安を消すべく言葉を続けた。
「いまあそこに座っている僕らが小田原で降りますので、お二人で座って
頂けますか」
つれが呼吸をあわせて笑顔でこちらに合図をしてくれたので、僕らが
どこに座っていてどうして行き先を聞いたのか、わかってもらえたようだ。
「すみません。ありがとうございます」
さっそくいま来た通路を戻って2人を席近くまで先導した。
80代半ばに見えるご主人のほうは足が少し悪いようでゆっくりだった。
僕の荷物ももって出てきたつれといれかわりで、2人が奥の2席に無事
座ることができた。
奥様のほうが席の前で立ったまま何か言いかけたのは気配でわかったが、
そのときはもう列車は小田原に着いてしまっていた。
僕らは慌てて出口に向かった。あっという間で振り返る余裕はなかった。
「あっ」
列車を降りてホームを少し歩きはじめたとき、つれが小さく叫んだ。
奥様が窓から満面の笑みでこちらに手を振っている。
新幹線の窓なのですぐ近くとはいえ音は何も聞こえないし別世界だ。
だが口の動きで、ありがとうございましたと伝えたいのがわかった。
小さな旅で起きた小さな出来事は、温泉にむかう僕らの心をぽっと
灯してくれた。
記:根本
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