今から25年ほど前のある夏の日の午後のことだった。
お盆休みからずらして休みをとっている先輩が数人いて
まわりは空席が目立っていた。のんびり仕事の書類に
目を通していると机の内線電話が鳴った。
「根本君、君はもう夏休はとったかね。あっそう、
まだならちょっと僕の部屋に来てくれるかな」
鈴木さんの野太いしゃがれた声は、受話器から
少し耳を離していても聞こえた。顧問の鈴木さんは
61歳で新入社員の僕とは37歳離れていた。
―囲碁部の話かな。
仕事の話でないのはわかっていた。鈴木さんは
会社の囲碁部の部長で、僕は間もなく鈴木さんから
引き継ぐことになっていた。
「失礼します」
ノックして部屋にはいると、鈴木さんは大きな黒い革張りの
背もたれに身体をまかせて煙草をくゆらせながら
一枚の紙を見ていた。
「これを一緒に行きたいと思ってね」
日本棋院主催、日中アマ囲碁交流旅行のチラシだった。
JALのツアーで第二回とある。すぐに値段に目がいった。
7泊8日で46万円だ。
―無理だな。貯金もないし。
そんな気持ちを察したかのようにつづけた。
「君さえよければ飛行機代はワシが出してもいいんだ。
JALのマイレージがたくさんたまっておってな」
がははと豪快に笑った。
「君のところの課長にはこのまえ話をしておいたよ。
根本君は10月後半に夏休みを取るよ、とね」
―えっそんな話がもう課長に!
僕の記念すべき社会人最初の夏休みが、
僕の知らないところで決まってるなんて。
おどろいて顔をあげるとすこしいたずらっぽさが
入った目とあった。
もう一度チラシを見ると、ただ囲碁を打つだけではなく
万里の長城や途中で西安に移動して兵馬俑など、観光も
もりだくさんの一週間だ。
―中国には行ったことないし、夏休みはまったく予定がない。
面白いかもな。
「囲碁部のほかのメンバーはねぇ、みんな家族がおってな。
誘っても、『鈴木さん、囲碁を打つならもっと近くで打ちます。
中国に行くならもっと安く行きます』なんて言うんじゃよ」
―そりゃそうだわな。
僕は100名近くいる囲碁部の中で18年ぶりに入社(入部)
した新人でただ一人の独身だ。幸い、高段者なので他のメンバー
からかわいがってもらっていた。
入社面接のとき、第二外国語は?と聞かれて思わず「囲碁」
と答えたのが形勢逆転になったのを思い出した。
人事担当役員が囲碁部だった。
「お誘いありがとうございます。行きたいと思いますので
よろしくお願いします」
その時の鈴木さんの嬉しそうな顔を今でもすぐ記憶の
フォルダーから取り出すことができる。
怒ると誰よりも怖いと社内でも有名な強面の顧問も、
僕にとっては大切な囲碁仲間のひとりだった。
記:根本
*いまの囲碁教室で満足できない貴方へ
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